1.31.2026

御言葉に必ず応えがある

 詩篇31:24 雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。

今日は聖書を読む前に、先日の出来事についての不安なことや、改善したいことなどを日記に書きました。そして、その後に聖書を開いたのですが、なんと、詩篇31篇に私の悩みの答えが書いてありました。数分後に主から応えが得られるのは、神様の恵ですね。

31篇を読んだあとに、何節か日記に書き写しました。

1節―恥を見ないように。2節―私の力の岩 3節―私を導き 

10-11節の全部を書き写しました。ダビデが罪を犯した結果で、近所の人等に避けられていました。その罪に携わりたくなかったからでしょうね。それは正しい決断でした。

人に避けられたことがありますか?私たちは燃えているクリスチャンで御言葉をよく語るから未信者が私たちをさけるなら、しかたありません。でも、神様を信じているクリスチャンなのに、私たちの行動や態度が主に喜ばれるものではなく、家族や友達が私たちを避けているなら、「なぜ人が私を避けるのか」と深く考え、自分の行動や心を改善すべきです。

31篇のテーマは一言でまとめにくかったですが、私たちは神の御手の中にいることがテーマだと思います。

木曜日のある話し合いで、非常にキツイこと言われショックを受けました。非常に心が傷ついてもおかしくない内容でしたが、神様の恵によって、それを素直に受け入れることができ、そして改善に向けて祈ってます。「どのようにこの年齢で習慣となっている行動を変えるのか」という大きな課題ですが、神様に不可能なことはないと信じて前進したいと思います。自分の力を頼ってはいけません。日本語の聖書の24節の言い回し「心を強くせよ」は誤解を招く気がします。私たち自身が自分で心を強くするという意味ではなく、神様が私たちの心を強くするという意味です。自分の性格を変えることや、繰り返してしまう罪等は自分の力でやめようと思っても、無理です。主よ、私たちをつよくしてください!

1.30.2026

「泣かない男」は間違っていた

 詩篇30:5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

「泣かない男」として頑張って来たんですが、この数か月間の涙はその前の47年間より多く流れてます。詳細は言いませんが、涙を流すことはそれほど悪いことではありませんし、辛い思いをすることによって学べることはたくさんあります。言い直すと、試練は大切なことを学ぶ目的でもあり、そして主に栄光を帰すためのものでもあります。せっかくの試練を経験しているのに、何も学ばず、ただ文句を言って霊的に成長しないのはもったいない! これほどもったいないことはないかもしれません。

5節には「御怒り」とありますが、神様は何に対して怒っておられるのかは書かれてません。4節には神様が聖なる方だとダビデ王は言ってますので、神様の怒りは聖なるものであり、罪に対しての怒りです。しかし、それは一時的な怒りであり、私たちは悔い改めると神様の憐みをいただけます。罪の赦しはどんなに感謝なことなのか?

涙はいろんな理由で流されますね?自分の罪に対する後悔。自分が被害者となっている。ガンの宣言を受けた。愛する人が亡くなった。まだその他たくさんありますね。しかし、私たちは神様を知っていれば、その涙は一時的なものでとどまり、主ご自身がその涙を喜びの心に変えてくださいます。ハレルヤ!主よ、お願いします!

詩篇を30篇、もう一度読んでください。「あなた」は何回ありますか?その「あなた」は誰の事ですか?考えてください。あなたの人生の主語は誰ですか?焦点は誰ですか?自分ですか?神様ですか?

1.28.2026

我が力、我が盾

 詩篇28:7 主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

私たちは何を頼りにしているのでしょうか?私たちは誰を信頼すべきかを知っています。正しい答えも知っています。それなのに、私たちは毎日、喜びと平安を得るために苦労しているのです。

私たちは主を力とするだけでなく、主を盾とする必要があります。たとえ世界最強の兵士であっても、盾なしで戦場に行くことはないでしょう。なぜなら、防御は攻撃と同じくらい、いや、おそらくそれ以上に重要だからです。だからこそパウロは、「私が他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(第一コリント9:27)と言ったのです。彼は、自分の霊的な歩みにおいて規律を守り、何事も当然のことと思ってはならないことを知っていました。彼は「悪い者が放つ火矢」(エペソ6:16)についてよく知っていたのです。

では、今日私たちに必要な盾とは何でしょうか?それは「信仰の盾」(エペソ6:16)であり、ダビデのように、主が私たちの力となり、盾となってくださることです。そうすれば、私たちは大いに喜び、喜びの歌をもって主を賛美することができるでしょう。