クリスマスキャンドル集会 12月21日 17:00~
チラシの電話番号間違ってました。申し訳ありません。お問い合わせは080-3229-7704よりお願いします。
地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。ヨエル2:21
私は現在、多くの恐れ、心配事であふれています。溺れそうほどです。人間的なレベル、理性的なレベルで言えば、それらの恐れには十分な理由があります。私の恐れについて詳しくは述べませんが、皆さんにもきっとそれぞれの恐れがあると思います。覚えておくべきことは、恐れは信仰の反対であり、恐れは神がどのような方であるかを十分に理解していないことの結果であるということです。神がどのような方であるか、何ができるか、そして神がすべてを支配しているという事実を理解すれば、私たちの恐れは消え去ります。
「地」とは何でしょうか?イスラエルの事、または天地万物をさしているでしょうけど、もっと簡単に言えば、「地」はただの土、岩、砂、粘土などです。あなたは自分が土のように価値がないと感じたことがありますか?神はヨエルを通して、その土地に偉大なことをなさると預言されました。神はイスラエルのために偉大な計画を持っており、今も持っています。しかし、私たちクリスチャンも神の目に価値があり、神は私たちのためにも偉大な計画を持っておられます。神が土にこのような約束をし、またマタイによる福音書の中で野の花や空の鳥の世話をすると約束しているのなら、まして私たちの人生にはどれほどの偉大な計画があるのでしょうか。
鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(箴 27:17)
これはかなり有名な聖句です。鉄が他の鉄とこすり合わされることで鋭くなりますが、人間は他人と関係で成長することができます。未信者同志なら同じ価値観や道徳の人だとそう言えと思います。私たちクリスチャンは未信者以上に言えるはずです。同じイエスさを信じて救われている私たちは他人との関係よりは他のクリスチャンとの関係が深くなっているはずです。困っているときや悩んでいるとき、どこで助けを求めますか?まずは、大祭司であるイエス様を通して、神の御座の前に行きましょう。まずは、神様にその悩みを伝えましょう。そして、必要な時に他のクリスチャンに助言を求めましょう。イエス様を信じていない他人の意見を聞いても、神様の御言葉と必ず違う助言になるので、意味ないと思います。
自分の家離れてさまよう人は、自分の巣を離れてさまよう鳥のようだ。箴言27:8
親は子どもの自立に向けと育てないといけません。年齢があがっていくと接し方がかわっていくわけですが、この8節はそういう意味ではありません。問題があっての家出の事です。。。新約聖書のイエス様のたとえ話(放蕩息子)から考えるといいかもしれません。
鳥が巣を離れるのはちょうど良いタイミングがあります。それより早く出ようとすると、何一ついいことが待ってませんし、巣から落ちてしまうのは、いうまでもない。
私たちクリスチャンとしても霊的に同じことが言えます。父なる神様は私たちの「アバ、父」です。いつも私たちのために、見えないところで見えない方法で働いておられます。しかし、私たちの生活にある試練や悩みを神様に委ねることなく、自分でなんとかしようとするときがありますね。「まだですよ。。。」と親が子どもに言っていると同じように、冷静に待ちましょう。神様の計画をあわてる必要はありません。
たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。(箴 26:20)
20節の一番の意味は陰口についてですが、もっと広く考えれば、すべてのもめごとに対して言えると思います。今朝、この説を読んだとき、心が刺されました!「ですよね。」と思いました。気が短い自分にとっては、何回失敗しているのでしょうか?(数えきれないかも)皆さんはいかがですか?
物事を深く考え、正義感が強い人にとっては、「気にしない人」や「物事難しく考えない人」を見るとイライラします。理解できませんが、この頃は、そうなりたいと思ってきた。ただ、彼らには欠点もあります:問題を解決しないまま、避ける、知らん顔をすることです。この立場はよくありません。
問題と真剣に向き合って、イエス様の心で他人と接するならば、どんなに神様が働いてくださるのか!神様の働きを見るためには、私たちの邪魔はよくない。陰口もよくない。関係ない人とそのことについて話すのもよくない。できるのは、神のアガぺの愛で行動しましょう。薪を足すのをやめて、冷静になり、火がきえていくのを楽しみにしましょう。
マルコ3:32-34 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。33すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」34そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
32-34節を理解するためには21節を見ないといけません。「気が狂ったのだ。」とイエス様の親戚がイエス様について言いましたよ!イエス様は大勢の人の前に奇跡をし、大勢の人が「すごい」と思っていたのに、家族が違う意見だった。。。恥ずかしかった。これ以上人に迷惑をかけないように、早くイエス様を連れ出そうとしたのです。
この頃痛いほどわかります。もちろんイエス様と同じ状況だと言っているわけではありません。しかし、いろんなことで努力して、回りの人たちがその変化を実感しているのに、一番気づいてほしい愛する家族は、無関心か逆に否定的。問題は当然その家族にもありますが、一番は自分側。。。すなわち、イエス様と私の関係が一番になっているはずなのに、そうなっていない。だからこそ、他人に自分の努力を認めてほしいと思う訳。
家族の影響が大き過ぎる日本。。。皆さんは誰よりわかるでしょうね!
その家族の目を気にしすぎると、自分たちの信仰生活、または、神様に仕える邪魔となりますから、再度、誰の目を一番気にして生きているのかを再確認しましょう。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録4:11)
4章は教会が天に引き上げられた後の礼拝を描いています。今日でも行きたいですね。日々の生活の中では私たちは神様の栄光と誉のために生きるべきですが、決して楽な道ではありませんね。私たちの感情や信仰は回りの人たちの行動に大きく左右されるからです。神様を恐れず、正しいことをしない未信者だけに囲まれていたら、まだわかりますが。。。実は問題の相手はクリスチャンの場合も多くあります。相手は御言葉を無視して行動するなら、そのクリスチャンはいつか神様の御前に立つときに弁明しなければならない。私は私で「主に従っていますか?主の栄光のために今日を生きる選択をしていますか。主の御心とその力に私は委ねていますか」と毎朝、自己の思いと行動を確認し、必要であれば、リセットしたいですね。そして、いつかは罪のない、悩みのない、涙のない。。。そのすべてが解決し、完璧な天国で主の御前にひれ伏し、主を礼拝する日が来ます!今日かもしれません。
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」(黙 4:1)
先週からの日々の御言葉は小倉BBCの「2年で聖書通読」表の箇所からとってます。ヨハネはラッキーと思いません?主の御声を聴き、幻を通して天へ昇られました。そして、そこで、未来の事を見ることができました。私たちも「明日のことを知りたい」と思っている時が多くありますよね?「○○はどうなるのか?」のような考えで、明日のことが知らないからこそ、不安になるのです。賛美を通して、御言葉を通して、「明日のことがわからないが、明日のことを知っている方を知っています」とお互いに励まし合うが、いつの間にかまた不安になってます。すこし、暗い考えかもしれないですが、ヨハネが見た未来はどんなものだったでしょうか?7年間の患難時代ですよ!未信者にとっては大変な7年間ですが、私たちにとっては希望のメッセージです。ななら、それが起きる前にクリスチャンは天に引き上げられるからです。明日は辛いことも幸いなこともあるでしょう。明日のことは知らないですが、それを支配している神様と昨日に比べ、今日は少し深い関係を作りましょう。
祈りの課題: 加藤姉妹
自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(箴 26:12)
ちょっと痛い御言葉です!刺されました。感謝します。私たちは御言葉を信じ、それを実行していると、もちろん素晴らしい事ですが、気をつけないといつの間にか、プライドがまた入ってきます。愚かな人には望みがあるというのは、その人は自分の愚かさに気づく可能性がまだあるからです。でも、「俺は知恵がある」と思ってしまうと非常に危険ではないでしょうか?そのうち、神様の御言葉から離れ、自分の知恵を頼りにする可能が残っているからです。昨日のメッセージの繰り返しになりますが、今週は状況から目を離し、神様とその御言葉に目を向けましょう。
黙示録1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
鍵は何個持っていますか?鍵が多ければ、多いほど立場が偉かったり、責任が重いという考え方があります。昔のある知り合いが、それほどの立場の人ではなないのに、自己アピールの目的でしょうが、すごい鍵の数を毎日持ち歩いていました。イエス様は「かぎを持っている」。これは権威を表しています。ヨハネ14:6にありますように、天への道は一つしかありません:イエス様を信じ、受け入れることですね。 しかし、すでにクリスチャンとなった私たちも、イエス様が私たちの人生において全ての権威を持っておられることを考えいるのでしょうか?私たちの身代わりとして死に、葬られ、そしてよみがえりました。感謝します!私たちの心配ごとや不安をその権威をもっている、鍵を握っている偉大な方に委ねましょう。・
今日の祈りの課題:柴山先生 (カンボジア人‐広島聖書バプテスト教会)
神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙 1:8)
イエスは私たちの支配者であり、従うに値します。神として、イエスは私たちの礼拝に値します。イエスは全能者として常に存在し、これからも存在し続けます。世界が創造される前からイエスは存在し、ヨハネによる福音書1章2-3節にありますように、イエスは初めに神と共におられ、万物を創造されました。これを考えながら生きると、今の不安はそれほどの問題ではないと気づき、不思議な平安が与えられると思います。
自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。(箴 25:28)
雑音が多い世の中です。本当に静かな場所がないでしょう。霊的にも同じです。私たちは神様の御前に静かになろうとしても、雑音がたくさんあります。。。。「あれはどうなるのか?これはどうなるのか?明日の支払いは間に合うのか?病気になって働けなくなったどうしよう。」一つ一つの不安を神様に預けたつもりなんですが。。。。。。いつの間にかまた心配しています。自分の心を制することは。。。山あり、谷ありですね!皆様はどうでしょうか?自分の力で自分の心を制するのは逆効果です。できません。「心を制しなきゃ」と思ったら、「早く寝なきゃ」と思って逆に寝れないと同じですよ。神様に委ね、その心にある雑音を神様に預ける。。。。。昨日はアメリカからの牧師から詩篇131についての説教みたいなものをいただきました。詩篇131も勉強したことないが。。。いい箇所です。。。いつか皆さんに分かち合いたいと思います。
苦難の日に、裏切り者に拠り頼むのは、悪い歯やよろける足を頼みとするようなもの。(箴 25:19)
日本語の聖書は「裏切り者」になってますが、KJVは「unfaithful man」になってました。=「不忠実な」のような意味。 ニュアンスが少し異なるかもしれませんが、私たちは人から目を離し、神様のみを頼りにするべきです。牧師や他の兄弟姉妹をヒーローにするのは危険です。なぜなら、私たち皆罪深いものであり、日々神様の恵が必要とする者です。
「悪い歯」。。。。痛いですね。。。。体の小さなものなのに、大きな痛み。。。または足の痛みも同じです。今日は健全な体で働けることを感謝して、痛みがある者は主の癒しを祈り、今日の一日は人に頼る前にまずは神様とのひと時を過ごしましょう。
軽々しく訴えて出るな。そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか。箴言25:8
対立を避ける人が多い日本では今から話す問題はこれを読むほとんどの皆さfんには関係ないかもしれませんが、お許しください。気が短い自分にとっては何回も失敗したことですので。。。。職場でも近所付き合いでも家族関係等でも、問題が起きる時に、私たちの感情が先に走り、多くの場合はただの勘違いなのに、冷静に動かなかった結果、その問題がより大きな問題となる。そして、恥ずかしい思いで終わってしまう。。。。相手の態度や行動を間違って読み取り、ただの思い込みで訴えるのをやめて。。。せめて。。24時間待つとか。。。。数日祈ってから行動すると、どんなに違う結果になるのでしょうか?
王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。(箴 25:6)
高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい。」と言われるほうがよいからだ。あなたがその目で見たことを、(箴 25:7)
箴言25章~は他人との関係についてのことわざが続きます。福音書にはイエス様が同じようなことを教えていますが、この箇所は私たちのプライドや謙遜について教えています。回りの人に褒められたいとか、認められたいとかはおそらくどの時代でもどの文化でも同じではないでしょうか?クリスチャンになってからもこれは戦いです。私たちはイエス様の模範に見習い、自分を低くし、人に仕えるべきではあるが、肉がそれを邪魔して、プライドを捨てたつもりなのに、いつの間にかそれがまた上がってきたりしますね。美容関係の商品、脱毛、ブランド服など、すべての広告は「他人に認められたい」という人間の基礎的な飢え渇きを理解したうえで、作成されていると思います。その中で、私たちはどう生きるのか?今日も王様の前に立ちますよ!その王様は神様です。。。。ひれ伏して御前に行きますか?プライドのあるものとしていきますか? 主の御前にへりくだり、主に仕える一週間となりますよう!
私は 大きな獲物を見つけた者のようにあなたのみことばを喜びます。...あなたのみおしえを愛する者には豊かな平安があり つまずきがありません。 詩篇119:162.165
スーパーで何でも簡単に手に入る 私たちはこの獲物というのはピンとこないかもしれません。昔の時代は 食べ物と飲み水 だけで みんな 精一杯 動かなければなりませんでした。
ですから この獲物というのは大きな宝物です。私たちの日々の生活に御言葉がどんなに大きな宝物になっているのでしょうか。
実はこの1週間でも私は神様に親しい関係を持ちながら悪魔が邪魔しようとしています。御言葉から目を離すように、いろんな状況に目を向けて心配するようにという誘惑です。
神様を恐れる(fear) ことと 状況に目を向けて恐れること(fear
)、これはふた心と言いますね。
同じ場所で 両方の恐れは存在できません。ですから 私は神様を恐れていて 神様の御言葉を宝のように愛しているならば 物事を心配する 不安が消えていくはずです。
今日はどっちの恐れを私たちを支配するのでしょうか。
神の御心を愛すれば大きな平安が与えられます。
私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。(詩 119:30)
主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。(詩 119:33)
真実(真理)の道を歩むかどうかは毎日の選択ですね。クリスチャンだから自然に選ぶわけではない。パウロと同じように毎日は肉と霊の戦いがあるからです。家族や職場等で突然の試練が来るとき、思いもしなかった残念な出来事があるとき、確かに私たちにはそれを止める力がなく、その試練を避けたくてもどうしようもない時があります。(被害者側にいる場合)しかし、時には、その突然の試練が来たのは、実は私たちに責任がある場合があります。日々の生活の中で真理の道を選ばなかった結果として、それが積み重ねての突然の試練です。「これは避けられたのに。。。」「あの時は○○すればよかったのに」と反省しながらも、神様の赦しをいただき、今度こそ真理の道からずれないように、それを終わりまで守る決心ができます。遅くありません。
あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(詩 119:11)
私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。(詩 119:18)
どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。(詩 119:97)
私は長年、思ってきたこと、言ってきたことがあります。。。。「子どもの頃はよく聖句を暗記していたが、大人になってから。。。無理だ。」これは考えてみれば、悪魔からの嘘ではないでしょうか?私たちの考え方と行動はどれだけ悪魔の嘘を信じて行動しているのか?全地を創造した、すべてを支配している私たちの神様は、私たちの脳もお造りなりました。御言葉を覚えるというのは、本当に大切なことです。朝、神様とひと時を過ごしたとしても、長い一日が待ってます。。。そして、御言葉を知っているはずなのに、自分たちの疲れや感情の変化、その日の出来事次第で自分たちの考えは一日何回もコロコロと変わっていきます。そこで、聖書的ではない考え方に誘惑されるとき、聖句を思い出す必要があります。
イエス様も40日間。。。荒野で試練にあったとき、御言葉で反応しました。
実は。。。。私が日本に帰国した日からベッキーの誕生日までちょうど40日です!40日は聖書の中でよく出てきますが。。。。ほぼ毎回「試練」と関係している数字です。
私も40日間の荒野の試練(家族がアメリカ、今一人で日本生活)を御言葉の力で乗り越えたい!成長したい!
今日の一日、神様の生きている、人の心を変える力が御言葉とともに、一日を過ごしましょう。
皆さんのために心からお祈りしています。
あなたを恐れる人々は 私を見て喜ぶでしょう。私がみことばを待ち望んでいるからです。( 詩篇 119:74.
今までのマイケルウインターズが人に近づいて来たとき、相手はどういう反応だったのでしょうか?逃げる、知らん顔する、それとも私のその日の気分次第、私の顔色を測ってからその反応を決める?
皆さんは神様とのひとときを 起きる時に過ごすのか夜に過ごすのか 特に これじゃないといけないというのはありません。
ただ自分の場合はイエス様と 時間を過ごした朝とそうではない日、 全く別人になります。
この74節は素晴らしいと思いました。私たちは神の御言葉と神様と親しい関係を保っているならば 他人が近づいた時 また私たちが他人に近づこうとする時、相手も喜ぶのではないでしょうか。
苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。あなたの御口のみおしえは 私にとって幾千もの金銀にまさります。 詩篇 119:71-72
苦しみというのは本来 嬉しいものではないですが 私にとっては御言葉をより深くより親しくなる きっかけともなりました。
皆さんの今日の1日の祝福を心からお祈りしています
詩篇119:125節 135節 私はあなたのしもべです。私に悟りを授けてください そうすれば私はあなたのさとしを知るでしょう。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。
しもべというのはへりくだって自分の悟りや 自分の力を頼らずに主人に全て 委ねていくということですよね。そうすることによって 神の栄光のために生きることができますし、また私たちの上に神様の豊かな祝福 だけではなく必要な知恵も注がれるのではないでしょうか。